想言

想ったことを想ったままに。

おばちゃんの絶対的安心感

 どこでも食堂に行くと思い出すおばちゃんがいます。

 

 北海道に旅行で行った際、とある大通り沿いの食堂に入りました。

夕飯時でしたからほぼ満席といった混み具合で、白いバンダナに白い割烹着姿のおばちゃんたちが慌ただしくお惣菜作りに励んでおられました。

そこは先にお会計を済ませてから食べるといったセルフサービスの食堂で、僕と友人も各々好きなものを頼みました。

僕は運転免許を持っていませんから、友人がずっと運転をしてくれていたので、「ここは感謝の意を込めて奢らせて」と申し出ました。

すると、友人はお惣菜を6品ほど頼んでいました。

「若い子はたくさん食べていいねぇ」とレジのおばちゃんが微笑んでいました。

「奢ってくれるなんて言うから、な」なんて友人に肩を叩かれながらお会計を済ませて、その日の旅程を振り返りつつ美味しくご飯をいただきました。

 

 そして帰り際、「ごちそうさまでした」とお店を出て行こうとしたところ、お会計を担当してくれたおばちゃんが笑顔で手を振ってくれていました。

思わず僕たちも「おいしかったです」と手を振り返してお店を後にしました。

 

 ご飯もそうですけれど、おばちゃんのあの笑顔とお見送りの仕方でそれ以上にエネルギーを頂戴した気がしました。

それだけで人に笑顔を届けられるあのおばちゃんの姿は今でもしっかりと一枚の写真として頭に残っています。

カメラで撮ったものよりも何よりも大切な一枚になりました。

僕も誰かの一枚になれたら、なんて思わせてくれる一枚です。

 

 

文字

   バスや電車等、予期せぬ人と隣り合わせになるものに乗っていると、往往にして人生の先輩とお話をする機会があります。

   

   まだスマートフォンが普及していない頃は皆さんどうやって移動時間を過ごしていたのでしょう。

本や新聞の活字に触れていたのでしょうか。

海外の友人が日本に来られたとき、「電車の中で話してるの私たちだけだったわ」と不思議そうに語っていたのを思い出しました。「みんな下を向いていて怖いわ」とも言っていました。

 

   ぼく自身はむしろ何気無い移動時間の会話は大好きなので、こちらから話しかけたりもしています。お相手の状況を鑑みてですけれど。

 

   文字での会話が圧倒的に増えたと思いますけれど、言葉での会話がやはり良いなあとも思ったり。

でもはるか昔は、お手紙をしたためて意中の人の心を掴んでいたなんて言いますから、またそれも面白いお話です。

   たくさんの文字に触れて、好きな言葉で気持ちを表現できる人になってゆきたいものです。

頭の中の図書館

 小説、新聞、エッセイ、ニュース。

毎日何かしらの文書を読んでは、頭の片隅にしまわれてゆきます。

能動的にはその一つ一つは取り出せないかもしれません。

それでも何かキーワードが与えられれば、不意に古い古いものが出てきたりします。

その不意打ちは自分を愉しませてくれたりします。

ですからそれが増えるように日々、蔵書数を増やすようにしたいものです。

自分を愉しませるためにも。

 

 今日は吉本ばななさんの「TSUGUMI」を読みました。

物語終盤、死を覚悟した少女から親友への手紙が綴られるのですけれど、やはり死を目前にすると、人は誰かに向けてメッセージを残したくなるものなのですね。

 僕自身も以前「もう死ぬのかな」なんて思ってしまったときに、ペンが進むに任せて手紙をしたためた過去があります。読み返しもせず、一心不乱に受取手のことを考えて綴ってゆきました。

 それ以降、LINEで済んでしまうこの時代に文通を始めたくなり、数人の友人と文通を始めました。手紙を書く、はその相手への想いの確認でもあります。書いている間中ずっとその人のことを考えていますからね。

 そして直筆の文字など目にすることが少ない中で、手紙でそれを見ると、「ああ、この人は文字はこうだよな」「あれ、こんな文字書くんだ」なんて、その人の新たな発見があったりしてそれもまた面白いです。

 

 「TSUGUMI」の物語に浸った後、連続して自分の過去にそのまま旅をしてきました。「TSUGUMI」を頭にしまって、過去の自分を取り出せました。いつの日か「TSUGUMI」の話自体を取り出せる日が来るのが楽しみです。

 

はじめました。

 日々押し寄せる言葉の波をそのまま記してゆきたいと思います。

 大きな波から小さな波まで、